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田中山神社

神楽殿新設に向けた地元の思いを後世に受け継ぐ

田中山神社〈広島市安佐南区〉

 

誰もが初めての経験だった神楽殿の新設。手書きの設計図や原寸大の模型作成など、文字通り手探りの建設だった。この神楽殿は宮司や地元の人々、職人の思い、そしてあの広島土砂災害の記憶まで次世代に残していく役割を持つ。

 

2017年秋に完成した田中山神社の神楽殿。神社仏閣を新設する機会はそう滅多にあるものではない。だからこそ職人たちは古式にのっとり質の高さにこだわった

 

向かって右側が明治末期に建立され昭和43年に修復された本殿。新設した神楽殿はその歴史ある佇まいに沿うように設計、施工された

 

お宮参り、七五三、初詣。地元の人々に親しまれているからこそ、神楽殿にかける思いも強かった。その強い思いによって夢は叶えられた。

 

 古くから地元に愛される格式高い田中山神社

広島市安佐南区安東の住宅街、アストラムライン安東駅から徒歩5分ほどのところに田中山神社はある。鳥居の下から63段の階段を見上げると、こんもりとした森に囲まれた鎮守であることがよく分かる。 田中山神社は、承久の変の戦功により、安芸国守護職に就く武田伊豆守信光の子孫、第五世武田伊豆守信宗が、正安元年(1299年)に武田山の峰に築城した際、鬼門を除くために勧請したと言われている。 神社には仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇、菅原道真、田紀理毘売命、市寸島比売命、多岐津比売命の、8神を祀ってあり、境内の一角には「さざれ石」も鎮座することから、ここが位の高い神社であることが伺える。 正面の本殿は明治20年10月の祭礼のときに焼失し、翌年に再建されたもの。昭和43年8月に大修理を行って、屋根も赤色明石瓦に葺き替えられた。近年では地域の子どものスポーツチームが必勝祈願に訪れたり、近くにある女子大の学生たちがボランティアで清掃活動や修復作業を手伝ったりするなど、地域住民からとても親しまれている神社だ。 田中山神社の秋の大祭は毎年10月の第3土曜と日曜。住民によって神輿が担がれ、獅子舞や神楽奉納、餅まきが行われるなど、この期間の神社は昼夜を問わず多くの住民でにぎわう。神楽の演舞については、ここ30年間ずっと境内に仮設ステージをつくり、そこで行われていた。そのステージは毎年祭礼のたびに地元の氏子たちの手によって組み立てていたのだった。

 

真新しいヒノキの香りが濃厚に立ち込める

 

神楽殿を新築する前の約30年間、大祭のたびに鉄パイプやブルーシートを使ってステージを組み立てていた。その準備だけでも氏子たちはひと苦労だったそう

 

職人の夢も叶えた。その高揚で生まれた現場の一体感

 

新しい神楽殿の軒の深さは約160cm、腕木は120cm。本殿よりも大きくならないサイズを心がけた。また屋根に反りを入れるため垂木に角度をつける工夫も

 

柱を立て、頭貫をつなぐ作業を行う橋本建設の大工たち。チャレンジでもある新設作業に職人としての腕がなった

 

 「図面はできたが、大きさのイメージがわかない」と原寸大の図面と模型を作成し、実際の大きさを確かめた

 

模型で確かめた後、実際の建築に移る。屋根の形や反りには細心の注意を払って設計・施工をした

 

2017年4月に行われた上棟。上棟式には橋本建設を始め、宮司、地域の住民らが参列し、餅まきなども行われた

 

地元の期待と大切な役割を抱えて堂々のお披露目へ

2014年8月の広島土砂災害によって被害にあった宇那木神社からヒノキを譲り受け、一部の柱や壁に使った。後世に伝えたい災害への思いを込めたのだ

 

清々しさと晴れがましさ。文字通りのヒノキ舞台

 

床、建具などは地元産のヒノキを使った。天井はスギ材。舞台を使用しないときにはシャッターを閉めることも可能。エアコン、音響設備、控え室も装備した

 

原寸大の模型も制作手探りで進めた建築作業

近年、氏子たちの高齢化が進み、ステージの設営が困難になったことから、数年前から神楽殿の新設が望まれていた。その思いや資金の目処が立ち、2017年秋にようやく念願が叶ったのだ。管理・建築を担当したのは橋本建設株式会社。橋本建設の社長、橋本英俊氏自身もこの界隈が地元。子どもの頃からここ田中山神社で神楽を楽しんでいた1人だ。「『神楽殿が欲しい』という総代さんの20年来の思いを聞き、ご縁をいただいてとても名誉なことだと思いました」と話す。橋本建設は鳥居横の手水舎の改装や、本殿の修復などには携わっていたが、神楽殿の新設はさすがに初めてだ。 原案となる図面を引いたのは橋本建設株式会社の元専務・河野和夫氏だ。河野氏は神社仏閣の設計資料を集め、本殿とのバランス、軒の深さ、屋根の反り、ステージの広さや耐震性などを1から考えた。通常は図面をCADで引くのだが、今回は調べながら手書きで図面を引いてイメージをし、原寸大の図面も作成。屋根から上部分の原寸大の模型をつくって、作業員全員で完成イメージを共有した。

 

 

 

 

 

地元民、総代、宮司、大工、設計士。みんなの思いが1つに

 

 

破風の下に付いている懸魚も手作業でつくられた。屋根はガルバリウム。美しくカーブさせる技術はさすが

 

土砂から救い出されたヒノキは新しい舞台へ。職人たちの手によって再び命が吹き込まれた。

 

日本建築を実践できる若い大工の貴重なキャリア

「チャンスだと思いました」と語るのは棟梁の政木稔氏。政木氏は手刻みで家をつくる橋本建設に憧れ、大工として入社した。これまで天然木を使用した住宅は何棟か建ててきたが、神楽殿はもちろん初めて。神楽殿の新設は大工としての大きなチャンスだと感じたのだった。「屋根の反りや垂木を放射状に張る方法などは規矩術と呼ばれる日本の伝統建築。勉強になり、楽しかったです」と政木氏。また「お寺の修復の経験はありますが、さすがに新築は緊張しました」と笑うのは現場監督の藤林浩二氏。藤林氏も同様に木造建築の粋を集めたこの仕事に、自身の貴重なキャリアとして意義を感じた。 安佐南区は2014年の広島土砂災害で被害にあった。ここに使われたヒノキの一部は、災害で流され伐採した宇那木神社から譲り受けたもの。「災害にあったヒノキを生かすことができて良かった」と宮司も安堵の表情だ。

 

 

右は田中山神社宮司・植木重夫氏。左は設計を担当した橋本建設株式会社の元専務・河野和夫氏

 

右から橋本英俊社長、現場監督の藤林浩二氏、棟梁の政木稔氏。舞台に上がって思い出を語り合う

 

 

みんなの思いと技術。次世代へと受け継いでいく

 

数年前から安芸高田市の錦城神楽団がこの神社で奉納している。神楽団のメンバーは初めて見るこの神楽殿に感動していたという。前夜祭を含めると数千人が神社を訪れ

 

2017年10月の秋季大祭。完成して初めての神楽が奉納された。竣工祝いとしてチンドン太鼓、キッズダンス、尺八の披露や花火も打ち上げられ、みんなで祝った

 

 

多くの思いを後世に神社が担った役割

2015年春にスタートした田中山神社の神楽殿建設プロジェクト。2017年10月14日、15日の秋季大祭の前夜祭と神楽殿竣工奉告祭に合わせて、ようやく完成した。大祭には巫女舞や太鼓、ダンスや舞踊が披露され、「やっとこせ~、あれは伊勢~、これは伊勢~」の掛け声とともに、お神輿も担がれた。そしていよいよ神楽の奉納だ。ここ数年、奉納をしている神楽団は、安芸高田市の錦城神楽団。演目は有名な「八岐大蛇」などだ。観客席は立ち見も出る盛況ぶりで、2日間で数千人が集まったという。 「こんなに人が集まってくださるとは思いませんでした。神楽はもちろんのこと、これからも地元の方のイベントに大いに利用してもらいたい。そして『人の集まる田中山神社』でありたいですね」と宮司の植木重夫氏は話していた。 長い間、総代の間で切望し、そして実現した神楽殿の新設。悩み、チャレンジをしてきた橋本建設の設計士や大工たちの知恵と技術、そして忘れてはいけない広島土砂災害など、この神社は後世に語り継いでいくための大きな役割を担っている。

 

 

手探りだった設計当初、河野氏は設計図を手書きにしてイメージを頭に叩き込んだ

 

 

取材協力

宮司 : 植木 重夫 氏

 

DATA

田中山神社 広島市安佐南区安東6-3-2 

設計 : MIU設計事務所、橋本建設株式会社 

施工 : 橋本建設株式会社 広島市安佐南区上安1-1-29

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